平成2020世紀日記

大学生の視点から社会、政治、映画やアニメ、自分の事から身近なくだらないことまで語るブログです。

平成とはどんな時代だったか? 次の時代には何を求めるか?

お久しぶりです。

大学生活最後の授業もあっさり終わり、あとは卒業を待つばかりとなりました。

内定は以前ありませんが、例のWebサービスや別で動いている企画が軌道に乗れば、そのまま起業もいいかもしれないと思いながら、のんびり生きています。

最近は家の中で、スマブラマリカーとシャドバばかりやっていて、何かしなければという思いから、今回の記事を書き始めました。

平成ももう少しで終わりということで、平成とはどんな時代だったのかを自分なりに語ってみたいと思います。

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 平成は1989年の1月8日に始まった。

6月には天安門事件、11月にはベルリンの壁崩壊と世界的な事件が起こった年だった。

ベルリンの壁崩壊は、冷戦の終結の象徴とされている。

つまり昭和が終わり、日本が新しい時代に踏み出すとほぼ同時期に世界も変化したのだ。

今年の正月にやっていた「朝まで生テレビ」で、とある人がこんなことを言っていた。

「昭和とは、平和と繁栄はいつか終わると思って生きていた時代。平成は終わりなき日常を生きてきた時代」と。

昭和と平成は、まさしくこの言葉で言い表せるのではないかと思う。

昭和は、戦争からの敗戦。世界は冷戦状態になり、それが終結。核戦争の危機から脱したが、平成が始まると失われた20年に突入し、この日々がずっと続くのだろうという漠然とした感覚の中生きていた。

 

偶然にもそういった世界や経済の大きな流れは昭和と平成の時代の変化は噛み合ったが、もう少しミクロな視点、私達の生活や価値観の変化はどうだろうか。

 

よく考えや行動が古臭い人のことを「昭和」という言葉を使ってからかったり、批判することがある。

お菓子の袋の口をしばるときに百均の便利アイテムではなく輪ゴムを使ったりしていると、「昭和かよw」と言われるかもしれない。

でも逆に「昭和は良かった」といったような古き良き日本を思い浮かべる言葉でもある。

昭和の時代にはこんなのなかったから逆に面倒臭くなかった、と言っている大人をよく見かける。

なんにせよ、昭和という時代は、それまでの日本の価値観(ほとんどは平安や江戸から続く伝統ではなく、明治以降に作られた新しいもの)をほぼそのまま受け継いでいった時代だったのではないかと思う。

男と女、家族関係、人種、国籍、家事と育児、仕事、LGBT……などなど。

身近なものに対する価値観のほとんどは俗に「古い」といわれるもののままの人が多かったのではないだろうか。

 

逆に平成はどうか。

例えばさっき例に出したものでいくつか考えてみると、男女は平等、長男が家を継ぐばっかりじゃない、人種や国籍で差別してはいけない、家事と育児は夫婦で分担、仕事はQOLを考える、LGBTへの配慮……などなど、それぞれに大して新しい考え方が出てきたのではないだろうか。

もちろん昭和生まれの人であっても、以前からこのように考えていた人はいるだろうが、ここでは誤解を恐れずこう言わせてもらった。

 

こう見ると、昭和から平成に変わり、新しい価値観が広まり、世の中はよくなった、と思えてくる。

しかし、平成は一つ大きな間違いを犯してしまった。

 

昭和の否定すべき場所は、価値観ではなく、価値観の絶対化だった、ということだ。

 

つまり、昭和の「AはBだ」という考えがあったとして、平成はそれを「AはCだ」としただけだったのだ。

Aに大してBと考えることが完全に間違いであるばかりではない。またCと考えないからって駄目なわけじゃない。

「Aは〇〇だ」と決めつける価値観の絶対化そのものが駄目なのだ。

正しい価値観というものが決まっていたことそのものが、社会に不幸な人を生む原因になっていたのだろう。

 

たしかに世の中におおよそ変わることがないであろう、普遍的な価値観というものもある。(人を殺すのはいけないこと、など)

ただ、身近なものの価値観には正解を作らないほうがよいことが多いと思う。

価値観に正解を作らない、もしくは一応の正解を置きつつ、反対の意見を持つ人とうまくやっていくことは、非常に難しいし、面倒くさい。

しかし私達はそれをやっていかなければならないと思う。

 

平成の次の時代に、私はそれを求めたい。

 

私はリベラル派だけど、リベラルは本来異なる考えや背景をもつ人を受け入れる寛容性が重要だったはずだ。

昭和の時代、リベラルに考え寛容性や新規性を含んだ考えが生まれ、平成になるといつしかそれが正しいリベラル的な考えということになってしまい、リベラルが窮屈になり、社会を混乱させているように感じる。

 

平成の次の時代が、価値観を上書き保存するのではなく、別名で保存するような、そんな時代になることを私は願う。

 

 

前澤社長の1億円と俺の1万5000円

 お久しぶりです。

 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

 そして、今年もよろしくお願いします。

 

 2019年始まってまだ二週間も経っていないけど、すでに世の中では多くの出来事が起こっていて、特に多くの人の関心を集め、賛否両論や悲喜こもごもな状況を生み出したのは、このツイートではないだろうか。

 2019年1月12日現在で約530万リツイートを叩き出している、あのZOZOTOWNの社長、前澤友作さんのツイートだ。

かくいう俺もリツイートさせてもらった。(残念ながら当たらなかったが)

 

100万円を100人に。

 

そんなパワフルな企画で日本国内の話題をさらい、TwitterのRT数世界記録を更新したこのツイートだが、このブログを読んでくれている方の中には知っている人もいるかもしれないが、俺も12月の中旬からクリスマスプレゼントキャンペーンと称して、Clanberryと連動した企画を行っていたのだ。

 こちらは54リツイート

まあ100万円を100人と5000円を3人では、企画の大きさがそもそも違うわけなのだが、今日はこの2つの企画を振り返っていこうと思う。

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Clanberryがクリスマスプレゼント企画を行った理由は、ひとえに多くの人にサービスの存在を知ってほしかったからだ。

公式アカウントをフォローして、RTして、Twitterアカウントだけでできるユーザー登録をするだけで5000円が手に入るチャンスを得られるなら、多くの人が参加してくれ、Clanberryの名が広まるだろうと思っていた。

 

しかし現実は甘くなかった。

 

はっきり言おう。

この企画は成功したとは言えない。

特にトラブルなく終えることができたので大失敗とまでは言わないが、失敗だった。

 

というのも、まず前提としていた条件が大きく崩れたのが原因だ。

5000円という金銭的な価値のあるものを提示すれば、多くの友達が参加してくれるだろうと思っていた。大学生は時間はあっても金はないからだ。

しかしその読みは大きくハズレた。

多くの人に宣伝をしたのにも関わらず、ほとんどの人はこの企画に参加すらしてくれなかった。

無料で参加でき、応募手続きも1分ほどなのにも関わらず、友人からの参加は数名だった。

これにより企画の前提が崩れた。

ここを俺は読み間違ってしまったのだ。参加しなかった理由はいろいろあると思う。

参加方法が分かりにくい、クリスマスの時期ということもあって様々な企業がプレゼント企画をしていて、友人からのRTに嫌気が差していて自分もやりたくない、無料であろうとサービスに登録したくない、などなど。

5000円にはそれらの障害を打ち破るほどの価値はなかったのだ。

 

その後、懸賞専用アカによるRTが続き、応募期間は終了となった。

12/25の配信クエストに3名にだけ当選クエストが混じるようにし、そのクエストのツイートをTwitterに投稿して当選確定としていたのだが、当選者を3名出したにも関わらず、ツイートをしたのは1名のみで、翌日その方にAmazonギフトカード5000円分を渡してキャンペーンは終わった。

 

結局俺は5000円しか使っていないわけで、その費用対効果を考えれば、この企画は大失敗とまでは言えないが、失敗だった。

ただ単にばらまくだけではだめだったのだ。

ただお金を賞品にするだけでは友人の参加も促せないのだ。

それは金額の問題かもしれない。5000円を3人ではやる気が出ないのかもしれない。

だが、俺はこのことでプレゼント企画の難しさを痛感したのだ。

人を動かすのは大変なのだ。

 

そんな俺の企画とは全てが違う前澤社長の1億円お年玉。

その詳細や流れは今更俺が語るまでもないだろう。

あの企画は大成功を収めた。

俺の企画と何が違かったのかと言われれば本当に全てが違うのだが、あの企画はただ単に金額が多いから成功しただけではないと思う。

 あのツイートについている二枚の画像。特に年賀状をモチーフにしたほうだが、郵便番号の部分が100ー0000となっていて、百万円を表している。

俺はそれに気づいた時、うまいなぁと思った。

 

1億円企画がスタートし、大きな話題を呼ぶと、ネットではそれを懐疑的だったり、否定的だったり、斜に構えた見方をする人が現れた。

景表法に引っかかるんじゃないか、お金をただばらまいて下品、広告打つよりお金をあげた方が効果が高いのかどうか興味深い、無償の譲渡契約は一方的に取り消せるなどなど。

 

それらの人に言いたい。 ダサい。

 

なにかアラを探そうとしたり、100万自体は興味ないけど企画自体は興味深いねと斜に構えたり、そんなのはかっこよくもなんともない。

この企画は凄かった。凄かったのだ。

そして100万円も欲しかった。凄く欲しかった。

これでいいのだ。

 

投票しないからこそ意見が言える!? なぜ選挙に行かないのか

 お久しぶりです。Kazmaです。ここ最近は演劇サークルで忙しくしていて、疲れのせいか、食欲が増大して深夜に唐揚げ弁当を食べる始末。この記事も深夜の3時に書いていて、明日も早いのだが、夜の方が筆が進むのだから仕方がないのです。

  まあそれは置いておいて、本題に入る前に一つ宣伝を。

 先月にローンチした「Clanberry -クエストボード-」ですが、現在(12/23時点)、クリスマスプレゼントキャンペーンを開催しています。

 ↓こちら公式Twitterアカウントのフォローと

twitter.com

↓こちらのツイートのリツイート

 そして、↓サービスのユーザー登録

clanberry.app

をしてくださった方の中から抽選で3名様に、5000円分のオンラインギフトカードが当たるという企画です。

まだ参加していないという方は、12/24まで開催していますので、ぜひぜひご参加ください。

 詳細はこちら↓

https://clanberry.app/xmas

 

宣伝はこの辺にしておいて、そろそろ本題に。

今回のテーマは選挙。

別に近いうちに大きな選挙が控えているわけでもないけれど、今回はこの選挙をテーマに、その中でも昨今問題となっている「選挙に行かない」という事柄について述べていこうと思う。

ぜひ最後まで読んでもらえると嬉しい。

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 まず最初に、皆さんは選挙に行きますか? 行っていますか?

 行っている人は行かない人に文句を言いたい人もいるだろう。結果が自分の支持したものでない場合は特に。

 逆に行かない人は、どうして大して意味もなさそうで、お年寄りばかりが行くイメージの選挙に行くのか疑問に思う人もいるだろう。

 

 ちなみに俺は選挙に行く人だ。

 まあこの記事を読んでいる人のほとんどは大学の知り合いだろうから、俺の性格を知っている人はまあ当然と思うだろう。

 俺は政治に関心があるし、好きなので、選挙権を持ってから今のところ全ての選挙に参加している。

 

 ただ別に今回の記事は、選挙に行かない人に「行け!」と説教する記事ではない。

 むしろ選挙に行かない人に寄り添うような内容になっているので、もしここまで読んで、「どうしよう私行ってない」と思った方も安心して欲しい。

 

 基本的な話として、民主主義国家の日本国民である以上、選挙に行くほうが一般論として良いことだ。

 それは、参加自由の地域の清掃活動に参加しないより、参加したほうが良いというレベルの、そういう意味の話だ。今の日本の政治が云々といった面倒な話は置いておいて、ただ単純に行かないよりは行くほうがいいだろうと。

 ここに特に異論はないだろう。

 ただ現状、日本の投票率は低い。国政選挙の全体の投票率はここ最近は50%ちょっとで、特に20代、30代の若者の投票率が低い。

下に総務省投票率に関するページのリンクを載せておくので暇な人は見てみて欲しい。↓

総務省|国政選挙の年代別投票率の推移について

 

行かないより行ったほうがいいというのは既に確認したので、事情はさておき現状で行っている人はこれからもぜひ選挙に参加してもらうとして、選挙に行かない人はどうしていかないのだろうか。

理由はいろいろあるだろう。

・面倒くさい、いつやっているかも分からない。

・誰に投票すればいいか分からない、てかそもそも選挙制度がよく分からない。

・支持できる人がいない。

・誰が誰に投票ジデモ゛オンナジヤ、オンナジヤ思っでえ!ウーハッフッハーン!! ッウーン! ずっと投票してきたんですわ!(※1)

 など、いろいろあると思うが、まあそれら一つ一つに対する意見はまた別の機会に言うとして、一年ほど前にとあるツイートがネットで話題となった。

 これを読んで、皆さんはどう思うだろうか。

たしかに政治には絶対的な正解はないし、民主主義は間違えを犯す。

その脆さは歴史が既に証明している。自分の一票が間接的に人を殺すことだってありえるのだ。

だから投票しない。したくない。

 

タイトルにもある、投票しないからこそ意見が言える、というのはそういう意味だ。

 

スポーツで誰かに絶対に負けないためにはどうすればいいか。

必死に練習する。

いや、違う。試合をしなければいいのだ。

試合をしなければ負けることはない。無戦無敗であり続ける限り、自分たちは無限の可能性を秘めておける。

 

政治の正解・不正解は、すぐには分からない。それが歴史となったときに徐々に判断が下されていくものだ。

そして完全肯定される政治はありえない。

どんな政治であっても良い点、悪い点があるからだ。

 

よく、「選挙に行かない奴は政治を語るな!」という批判が起こったりする。

もしくは「選挙に行かないということは白紙委任と同じだ」、つまり自分たちの生活を他人の判断に委ねてしまうことなのだと。

そう言って、選挙に行かせようと発破をかける人々がいるが、おそらく効果はないだろう。

 

なぜなら、選挙に行かない人の多くは、むしろ人に任せたがっているのだから。

 

例えば、A市でとある議題について議論されたとする。

その結果、自分や友達、ひいては市民の多くの意見とは違った結論が出されたとする。

当然A市の市民は怒るわけだが、選挙に行ってた場合はどうだろう。

よく考えてみると、その自分たちの意に反する結論を出した議員は自分たちで選んだ議員なのだ。

下手すると自分が以前に投票した議員かもしれない。次の選挙では投票しないと固く決意するが、今回の議題を再度議論してもらえるかは分からない。

今回の結論が出てしまったのは間接的に自分のせいなのだ。

だってその議員を選んだのは自分なのだから。

 

だけど、選挙に行ってなかったらどうだろう。

意に反する結論を出した議員を選ぶことに自分は全く関与していないのだ。

白紙委任? そんなもの、投票に行った人がマトモな人を選べばよかっただけの話で、人のせいにしないでもらえますか? あーあ、もっと良い議員だったら良かったのになぁ。誰だよ、あんなの選んだの」

とまあこんなふうに、散々に文句が言えるわけだ。

 

投票をしないからこそ意見が言えるのだ。

 

投票をしていないから、責任がないから、関与してないから、好き放題言える。

自分だったらあんな議員には投票しなかった、なんで選挙のときにちゃんと選ばなかったの、などなど。

最終的な決断を人に押し付けることで、自分は責任を取らずに済む。

選挙に行かないというのは、一番都合のいい役回りなのだ。

だからこそ、選挙に行っている人は、それが悔しいから行かない人に選挙に行けと言う。

俺たちだけのせいにするなと。お前らも同じく責任を取れと。

 

もちろん、日本には言論の自由があるわけだし、自分たちで選んだからこそ、議員に文句が言えるという捉え方はあるし、文句や意見は当然言っていい。

というかむしろ言うべきだ。

 

ただ選挙に行かない人の多くは、間違いを犯したくないからこそ、人任せにしたいのだ。

だから政治を人任せにしていいのか!という批判は的外れなのだ。

 

意見を言うというのはリスクがある。

それは別に炎上とかって話ではなくて、間違うというリスクだ。

学校の授業で先生が「分かる人は手を上げて」と言った時に、ほぼほぼ答えが分かっていても躊躇するのは、間違うリスクがあるからだ。

数学や理科や社会ならまだ手を上げやすいかもしれない。

けど、国語の文章問題で、段落の意味を答える問題だと余計に手を上げにくいかもしれない。

なぜなら答えが曖昧だから。

国語の文章問題だとたまに悪問が混じっていて、先生ですら、AとBどっちでもいい気がするみたいに言う時がある。

国語の文章問題ですらそうなのだから、答えを出す時点で正解が分からない政治なんて、もっと意見が言い難いだろう。

この国は、間違いに不寛容で、人々は間違うリスクに怯えているのだ。

間違うくらいなら、何も言わないほうがいい。

ほとんどの人がそう思ってしまっているのだ。

 

ここで少し別の話をしよう。

人狼、というゲームを知っているだろうか。

プレイヤーはそれぞれが村人と村人に化けた人狼となり、自身の正体を隠し欺いたりしながら他のプレイヤーと話し合って人狼を見つけだすというゲームだ。

このゲームの立ち回りで、役職のない村人になった初心者にありがちなのが、何も意見を言わないというものだ。仕切り役が議論を進めるのをただ聞いて、多数派に乗っかる。

しかしこれをすると、大抵村人側は負けてしまうらしい。

人狼の上手いプレイヤーが言っていたのは、感でも、当てずっぽうでも、何の根拠もなくていいから、誰が怪しいかを言うことが重要だと。

特に推理をしてなくても、「Bさんが怪しい」と言えば、Bさんは何らかのリアクションを取らざるを得ない。その反応が推理の材料となるのだ。

だから何も言わないのが一番ダメだと。

 

政治もそうなのだろう。

間違っていいのだ。民主主義は間違うものだが、しかしその間違いを修正することもできる。

イメージでも鉛筆サイコロでもいいから、投票というアクションを起こすことが重要なのだろう。

意見を言うことで間違うリスクを背負うし、自分の投票が間違いだと気付かされることもあるかもしれない。

投票に行かなければ、自分に都合の悪いニュースを全て投票に行った人達のせいにすることもできる。家でテレビを観ながら、第三者目線で文句を言うこともできる。

それが一番賢いやり方かもしれない。

でもそれでは本質的に自分の生活は豊かにはならないのかもしれない。

 

でも、この国の政治制度や、学校教育の中で、政治に当事者意識を持て、というのはなかなか難しい話だろう。

正直俺ですら、政治に関わっているという実感は薄い。

投票に行くことでこの国を変えられるとも思えてない。

だから、選挙に行かない人の気持ちも分かるし、その人達に行けと言える根拠もない。

ただ、言えることは間違ってもいいのだ、ということだけだ。

間違ってもやり直せる。現状の選挙制度ではそれが可能だ。

 

意見を言うことがリスクを背負うことだし、間違って恥をかくこともある。もしかしたら結果に責任を感じることもあるかもしれない。

だから選挙に行こう、と俺は言わない。

 

 

 

引用

※1 野々村竜太郎議員の号泣会見を全文書き起こし - ログミー[o_O]

 

Clanberryの疑問や秘密について全部話します!

友人と共同で作った「Clanberry」をローンチしてから二週間が経った。

徐々にユーザー数も増え、定期的に利用してくれる人も増えてきている状態だが、まだまだサービスへの理解が進んでいるとは言えない状況だ。

そこで今回は、Clanberryの開発理由やサービスの狙い、そして近日実装予定のアップデートから、Clanberryグループの新プロジェクトまでいろいろ話していこうと思う。

ぜひぜひ最後まで読んで欲しい。

clanberry.app

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 Clanberryのアイデアのきっかけはローンチ時の記事でも書いたが、今回はそれをなぞりながら、よりボリュームアップしたものをお届けしようと思う。

 

 最初に言っておこう。

Clanberryは人に新しい可能性を提案することを目的としている。

これは今回制作したWEBサービス「Clanberry -クエストボード-」ももちろんそうだ。

 

下記のstartappさんで掲載させてもらった記事でも述べているが、Clanberryは何も予定がない日にちょっとした話題やお題を提案することを目的として作られている。

startapp.jp

例えば、土曜日、お昼すぎに起床して、ダラダラとスマホを触りながら家にあったもので簡単にお昼を済ませ、その後もベッドでダラダラしながらスマホでゲームをしたり、YouTubeNETFLIXを見るなんて生活、ないだろうか?

そんな時に友達から「映画でも見に行かない?」「夜の合コン人足りないんだけど」なんてLINEが来たら、どう思うだろう。

きっと一番最初は、無意識か意識してかは分からないが、「面倒だな……」と思うんじゃないだろうか。

でもなんの映画を見るかを話したり、どんな人が合コンに来るかを聞いたら、徐々に行ってもいいかなという気分になって、「おっけー。じゃあ何時にどこどこね」というLINEを送ることだろう。

そうして出かけて、夜に家に帰った時、「あー行かなきゃよかったな」と思うことなんてどれだけあるだろう。

ほとんどの場合、「行ってよかったな」と思って家に帰ってくるんじゃないだろうか。

 

人は、「何か面白いことが起きないかなぁ」という冒険願望と、「この何気ない毎日がずっと続けばいいのになぁ」という安定願望のジレンマの中に生きているような気がする。

友達と学校帰りにどこかへ寄って駄弁る青春真っ只中にいる時や恋人とラブラブで毎日のように会っている付き合いたての時は、この生活がずっと続いたらいいなと思うだろう。

逆に、社会人になって変わり映えのしない毎日をただ生きているだけの時や学校のイベントが何もなくテストが近づいてきている時なんかは、何か楽しいことないかなぁと探すだろう。

 

別にこれはある程度の長さのスパンでなくても、ディズニーランドに行った日とその次の日みたいなことでも、人の気分は変わる。

楽しい時は、その楽しい瞬間をインスタに投稿すればいいだろう。

でも何か面白いことないかなぁと気分が沈んでいる時、その憂鬱を深夜にTwitterに連投して、朝起きた時に消すようなことをしていても、何か面白いことはやってこない。

 

面白いことは起きるものじゃなくて、探すものだからだ。

 

何も予定がない休日、友達と会えない大学の空きコマ、何を食べるか決まらない時、友達と駅で落ち合ったはいいけど何も決めていない時、そういう「何か面白いことないかな」とふと思う瞬間に、開いて欲しいWEBサービスとしてClanberryを作った。

だから、毎日ランダムに配信される3つのクエストは、全てを実行しなければいけないわけじゃないし、毎日やらないといけないものでもない。

やったことに対してClanberryとして提供できる価値は特別ない。

 

だけど、ふと「何かないかな」と思ってClanberryを開いて、そこにあったクエストがたまたま目に止まってやってみたら、良いことがあるかもしれない。

Clanberryにはいろんなクエストがある。馬鹿らしいものからハートフルや真面目なものまで本当にいろいろだ。

そしてそのクエストとの出会いは、もしかしたら一期一会かもしれない。クエストを実行しても、それによって偶然に良いことが起こるなんてことは滅多にないかもしれない。

でも、クエストがきっかけで、久しぶりに両親に電話をかけたり、片思いの人に告白する後押しになったり、人との出会いになったり、ちょっとした思い出ができたらいいなと俺は思う。

人生にセレンティピティを与えるきっかけにClanberryがなれたらいいな、そんな思いで俺はこのWEBサービスを作ったのだ――

 

だから、クエストが興味ないものばかりで当たり前だし、目を引かなければやらなくてもいい。俺もやらないでスルーしているクエストはいっぱいある。

登録してもクエストを実行しなければいけないわけじゃないし、ふとした時に開いてみるっていう使い方も本来の使い方の一つだ。

偶然出会った「何か面白いこと」の体験を多くの人共有してもらうためにTwitterの連携機能を付けているだけで、レイバンのサングラスの広告をツイートさせるためにアカウント連携機能を付けているわけじゃないので、ぜひそこは安心してほしい。

アカウント情報を管理しているのはTwiiter社で、パスワードなどはClanberry側では一切管理していないので、乗っ取りのようなことがClanberryから発生することはないので、もしそれが引っかかっていて使っていない方がいたら、安心してもらえると嬉しい。

 

次にClanberryという名前やロゴについての秘密を話そうと思う。貼り付けた記事の中でも若干語ってはいるが、あれはほんの一部だ。

まずClanberryという名前だが、これは想像の通り果物のクランベリーから来ている。しかし果物のクランベリーのスペルはcranberryなので、RがLになっている。

それには理由があって、clanという単語がある。これは「一族」という意味があるのだが、オンラインゲームなんかでチームを組む際に、「クランを組む」なんて言うが、そのクランだ。

人の集まりであるclanと果物のcranberryを掛けた名前だが、そもそもなぜ果物の名前を使ったのか。

それは、ブランド名はカッコ良さと可愛さを掛け合わせたものがいいという俺のこだわりからだ。

流行っているサービスの多くは、カッコいいのと同時に、どこかに可愛さもある、と俺は思っている。

クランというのはどちらかというとカッコいいイメージの言葉だが、これだけではただカッコいいだけだ。可愛さを足すために果物の名前と掛け合わせたのだ。それにクランベリーは粒がたくさん集まっている果物なため、それも人が集まるというのをイメージしている。

ロゴについてだが、これに関しては俺が自分で全部作った。割とロゴマークについては好評なので、俺自身結構嬉しいのだが、クランベリーの実と葉が3つずつなのは、デイリークエストが一日に3つ配信されることと、「三本の矢」「三人寄れば文殊の知恵」と言われるように、3のバランスのとれた強さをモチーフにしていたりする。

 

さてさて、話は変わるが、サービスのローンチ当初から、多くの人にご要望をいただいていることがある。

それは、クエスト内容をTwitter上のツイートから見れるようにしてほしいというものだ。

現在、投稿されたツイートのクエスト内容を知るためにはいちいちツイートに貼られたリンクを踏まないといけない。これが非常に不便だった。

だが、安心してほしい。近日行われるアップデートで、ツイートを見るだけでクエスト内容が分かる機能の実装が行わる予定だ。

エスト実行のツイートの印象も大きく変わるはずなので、今既にClanberryを利用している人も、これから利用を考えている人もぜひぜひ楽しみにしていて欲しい。

 

そして最後に、冒頭でClanberryは人に新しい可能性を提案することを目的としていると言ったが、それは何もWEBサービスだけでしかできないことではない。

現在、リアル世界で大きな変化を起こすClanberryの新ブランドを計画中だ。

プロジェクト名は「City Tag」

こちらも近いうちに詳しい告知をする予定なので、期待しておいて欲しい。

内定もないのにこいつは何をしているんだと思われる方も多いとは思うが、今やりたいことをやるというのが俺の人生の哲学だから仕方ないのだ。

それではまた次の記事で会いましょう。

 

中田敦彦発言から考える、夫婦とは?家事とは?気持ちのいい生活ってなんだ?論

 ※この記事は約一ヶ月ほど前に書き始めたもので、その後止まっていたものを今更になって書き足したものです。

 

先日WEBサービスClanberry -クエストボード-をローンチしたということで、一応の一段落はついたところのKazmaです。

そういうわけもあって書き換えだった記事を書き終えてしまおうということで、早速書いていきます。

 

そもそもこの記事は下記の2つの記事を読んで書き始めようと思っています。

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papapico.hatenablog.com

dual.nikkei.co.jp

 最初に読んだのが上の記事で、その後その記事の中で話題に上がっていた下の記事を読んでみた。

 皆さんも興味があったらぜひ読んでみてほしい。

 

 と言ったところで多分読まない人が多いと思うので、内容をざっくり説明すると、オリラジの中田敦彦さんが、ずっと「良い夫」を続けてきたはずなのに自分も妻も不満がつのるばかりだったので、一度最初から考え直しました、というのが下の記事。

 上の記事は、その中田敦彦さんの記事を受けて、彼はサイコパスだとしたうえで、男にありがちな「本人はやっているつもりなのに妻から家事をやっている認定を受けられない問題」についての持論を展開している。

 正直内容に対しては、どっちも一理あるというか、読み応えがあるので、今回の記事はその批評ではなく、ちょうど前々からやりたいと思っていた「男女問題」に切り込んでいくための糸口として「家事」は比較的適してるかなと思ったので、基本的に記事の内容を引用しながら持論を展開していく流れになると思う。

 

 最初に言っておくと、俺は今東京で一人暮らしをしていて、家事全般は一人でこなしている。ただ家族となると家事の規模感が変わったり、子供がいるとそこに子育ても入ってくるので、自分の経験だけでは語れない。

 なので、母親の話やいろいろなところで見聞きした話を交えつつ話していこうと思う。

 

 今回の話はあれこれ書いていく感じのものになると思うので、タイトルで提示した疑問の答えをまず最初に提示しようと思う。

 ズバリ、人間関係は自由だ!

 これに尽きる、というかこれが俺の答えだ。

 昨今、イクメンやらライフワークバランスやら女性の社会進出やらと様々言われているが、人間の関係性は人それぞれバラバラでいいはずなのだ。

 二人が納得して満足していれば、法律に違反したり、公序良俗に反するような関係性でない限り、どのような人間関係であってもいい。

 じゃなきゃSMプレイなんてものは成り立たない。

 亭主関白でもいいし、男は外、女は内みたいな家族でもいい。共働きだからって家事を分担しなくちゃいけないわけでもない。

 そもそも、「子育ては二人でするもの」、「家事分担」といった流れがなぜできたかと言われれば、昔は「男は外で働いて、女は家のことをやる」というのが当たり前に決まっていて、でもそれが時代遅れになり、男だって家事や育児をするべき、女性ももっと働きたいとなってきたからだけれど、全ての元凶は「男と女はこういうもの」「家族とはこういうもの」という常識が決まっていたことなのだ。

 決まった型があるからこそ苦しかったのだ。

 なのにせっかく、その古い型打ち破り始めたと思ったら、すぐに新しい型を作り始めてどうするのだろうか。

 

 昔は女は家のことだけやっていればいい、という型があったらからこそ、社会で活躍したかった女性が苦しんだ。

 けれど、逆に新しい型が作られていくと、仕事だけやりたい夫とそれを支えるために専業主婦をやりたいという妻という夫婦もいるはずなのに、仕事だけやっている夫が「ダメ夫」とされてしまい、二人は満足しているのに、その人間関係に何も関係ない人間から文句を言われることになってしまう。

 

 昔はこうだと決まってた、だけど今はこうなんだと決めよう!

 ではなく、

 昔はこうだと決まってた、だけど今はこうなんだと決めるのをやめよう!

 

 とするべきなのだ。

 最近は何やら人の人間関係に首を突っ込んで当事者は納得しているのに「こうするべき!」と批判をする人が増えているように感じる。

 もちろんそれで彼らが気付いていなかった不満点に気付いて関係性が改善することもあると思うので、意見を言うことは何ら悪いことではないと思うが、「人間関係は自由」を基本スタンスとして、他人の関係性に首を突っ込む際には「間違っているものを教えてあげる」という態度ではなく、「こんなのはどうでしょう」という謙虚な態度であるべきだと俺は思う。

 

 と、ここまでが記事の結論であり、内容の8割なので、もういいよって方はブラウザバック推奨です。

 でも残り2割の細かい話も読みたいという人は、あと少しお付き合いください。

 

 とここまで読んできた方は、「結局、人それぞれってことで何も結論出してないじゃん!」と思われてしまうと思う。どこかの政治学者ではないが、結論めいたもので誤魔化すと頭良さそうには見えるが、「で結局なに?」となってしまうところがある。

家庭それぞれ、というのは俺の一応の結論であるが、その上で実際どういうふうにやっていったらいいかを述べていこうと思う。

 

まず、1つ目は。ぱぴこさんも記事の中で言っているが、家庭内の家事の基準をお互いで共有しておく必要がある。

例えば、掃除が終わったとはどのような状態を指すのか。

洗濯物を取り込んだとはどのような状態を指すのか。

その基準は人によってはバラバラで、見えないところのホコリはそのままでもいい人と、できるだけ完璧に綺麗にしたい人がいる。

だから家事のクリアラインをお互いが知っている必要がある。それだけで無用な争いを生まずに済む。

 

2つ目は、1つ目と少し関連しているのだが、家事をイベント発生と捉えるか、フロー処理と捉えるかを考えておくことだ。ぱぴこさんは家事はフローであると記事中で述べている。

例として上げているのは下記のようなものだ。

冷蔵庫に秋刀魚と手羽先があるな~。秋刀魚はそろそろ期限だから今日食べなきゃ。でも明日ゴミの日だから、手羽先を処理して骨出しちゃいたいな。あーだったら秋刀魚はマリネで日持ちさせて、今日手羽先メインで献立を作るか。野菜はまだあるから今日は買出し行かなくてすみそうだな。どうせ明日ゴミ出しだから、今日のうちに洗濯物回すだけまわしちゃってドラム掃除機の埃掃除もして全部出しちゃえ。そろそろ洗剤切れそうだからamazonで発注しなきゃだなー。他のものも含めて考えて次の資源ごみの前に到着するように依頼かけよっと(10秒)

 俺は正直これはやってもやらなくてもいいと思っている。実際一人暮らしの家事なんてものはイベント発生で十分にこと足りる。ゴミの日だって一週間に二度あるわけだし、その地域やアパートのゴミ捨てのルールにもよるかもしれないが、別に2日前に出したからといってとんでもないことになるわけではない。

こういうことを言うといろんな批判を呼びそうだが、人生とはその場その場で生きるだけで十分であり、今日食べたい方を食べて、もう一方を後回しにして腐ってしまったのなら捨てればいいだけの話だ。(その場その場で生きていくという人生価値観についてはまた今度記事にする)

洗剤なんてものも、なくなったら買えばいいだけの話で、一日二日洗濯できなかったからって別に死にやしない。

要するに、家事は自分の意識次第でどうとでもクオリティを下げられるということだ。

まあ確かに一人暮らしと子供が2,3人いる家庭ではゴミや洗濯の量が違うし、学校の制服などはワイシャツが2枚とかなので、割と大変なため、家庭によって対応を変える必要があるが、それでもどうにかならないことはない。

 ただ当然、家事をフロー処理として捉え、あれやこれやを考えて動いているほうがミスも少なく効率もいい。

だからこそ、そこは家庭ごとに話し合って、フロー処理で考えるのか、一部をフローで考えるのか、ほぼ全てをイベントと考えるのかを話し合うべきだと俺は思う。

 

そして最後の3つ目は、ぱぴこさんが言っていた当事者意識についてだ。

例えば、朝、お母さんがお父さんに「出かける前にゴミ出しといて」と言っている光景というのはみんなドラマなんかで見たことはあるんじゃないだろうか。

これ一見お父さんも家事の一旦を担っているような気がするが、よく考えると、お父さんはあくまで実行役であって、「ゴミ出し」という家事を発案したのはお母さんだ。

世の女性は、ここに不満を感じているのだ。

つまり、家事を発案し、それを適切なタイミングで実行者に指示を出す。その後実行者が履行したかを確認し、済んでいなければ再度指示を出す。

こういった見えない家事を世の男性陣は意識しておらず、それは詰まる所家事に対する当事者意識の欠如だという話だ。

これは至極まっとうな意見で、「二人で家事をやろう」と決めたのに、片方がこの状態ではもう片方が徐々に不満を貯めるのは当然だろう。

よく言う「言われたことしかやらない」というやつだ。

 しかし逆に考えてみると、会社というのは仕事の指示を出す人というのは決まっている。その人があらゆる進捗を理解していて、マネジメントをする。

下の人は言われたことをこなすだけで会社が回る。逆にそれで回らないんであれば、それは上司のマネジメントが間違っているということだ。

とすると、一人の人が管理者となり、実行しかしない人というのも形としてはありだ。

 

だからこそ、話し合いが大切なのだ。

 

つまり全てはここに行き着いてしまう。もし今家庭内で、家事について問題が起きているなら、先程上げた3つのポイントについて、話し合う。

例えば、家事の基準値が10段階だとして、話し合った結果、8がクリアラインと決まり、それを超えるためには家事をフロー処理としていかないと難しいだろうと結論が出た。そしてフロー処理で8を越えるためには、妻が管理者となり、進捗を管理したほうが効率がいいとなり、その分、夫が実業務を多めに行うと決めるのもありだ。

もしくは、しばらくの間は妻が管理者として夫に仕事を指示するが、2ヶ月後には管理者に出世してもらい、お互いが半分ずつくらい家事を自分で見つけやっていくとしてもいいだろう。

 

また、別のパターンで、家事のクリアラインは5で、子供もいないから家事はイベントとして捉えよう。5であれば管理者はいらないし、夫婦ともに自分で家事を見つけて行うのでこと足りるでもいい。

 

パターンは本当に無限で、専業主婦だから家事のクリアラインを10にして、自分が管理者でありながら実業務も行い、夫には仕事だけしてもらうでもいいし、妻は料理が得意なのでそれだけをやってもらい、それ以外を夫がやるでもなんでもいい。

3つのポイントに分けて考え、それらについて話し合い妥協点を見つけていけばきっとその先に気持ちのいい生活は待っているだろう。

 

ただし大切なのはお互いを尊重する心だ。

一方が勝手に家事のクリアラインを10に決め、管理者もやって実業務もやれと片方に要求するのは後々破綻を招く恐れがある。

人間同士、完全に意見が一致することなんてない。

だからこそ譲り合う気持ちが大切なのだろう。

 

要は、家庭内の関係性は人それぞれ自由であって、二人が納得していれば外野がとやかく言うことではなく、二人の納得を作るためにはポイントに分けて物事を整理し、話し合うことが大切ということだ。

 

最後に俺の持論を言っておくと、家事のクリアラインは下げたほうが幸せになると思う。適当にしてもいいものは適当にしたほうが良かったりするのだ。

 

ではまた次回の記事で会いましょう。

 

ついにWEBサービスをリリースしました

お久しぶりです。

ブログの更新頻度を上げると行った途端頻度が下がることで有名なKazmaです。

 

以前からTwitterを見てくれてるからなら知っていると思うけど、俺は10月くらいから友人のいけだ君↓

と協力して、とあるWEBサービスを制作していたんですが、それがとうとう先週の木曜日、11/15日にローンチとなりました。

 

サービス名は「Clanberry(クランベリー)」です。

 

どういうサービスかをざっと説明すると、ユーザーはクエストと呼ばれるお題を匿名で依頼することができ、それを受け取ったユーザーはそのクエストをクリアしてTwitterに報告するというサービスです。

もう少し詳しく話すと、クエストボードと呼ばれるお題を集める箱があり、そこに誰でもクエストを依頼できます。クエストは、質問、やって欲しいこと、挑戦系、クイズや大喜利でもなんでもよくて、集められたクエストは毎日ランダムに登録してくれたユーザーの元に配信されます。

サービスへの登録はTwitterアカウントから簡単に行えて、登録が完了すると、さきほど説明したクエストボードからクエストが配信されます。

例えば「好きな食べものはなんですか?」みたいなクエストが届いたら、クエスト実行ボタンから「寿司とラーメンです」みたいにテキストを書き込み、Twitterへ投稿ボタンを押すと自分のアカウントからツイートされるみたいな感じです。

 

↓これが作ったWEBサービスです。

clanberry.app

 

制作開始から約一ヶ月でローンチにこぎつけたわけだけど、今回はサービスの宣伝も兼ねて、誰も興味ないかもしれないけど、サービスが生まれるまでの経緯や裏話、これからの発展の話をしていこうと思う。

 

ーはじまりー

このサービス生まれたそもそものきっかけは、今から一年ほど前だった。

元々インターネットサービスに興味があって自分でも作ってみたいとは思っていたのだがなかなか踏み出せず、大学三年の冬に特にやることもなくて暇だなという理由でプログラミングの勉強を初めたのだ。

しかし、俺は高校の頃にコンピュータ研究部に入って少しだけプログラミングをかじっていて、その時はなんか性に合わず投げ出していた。

今度は言語も違うし、具体的に何が作りたいかがはっきりしているから続けられるだろうと思っていたのだが、なかなか勉強ははかどらず、何度も同じ範囲を復習しつづける毎日。

一応作りたいサービスはあったのだが、アイデアが壮大で現実味がなかった。今勉強しているものが将来作りたいものを作るときに役立つのは分かってはいたが、なかなかはかどらない。

そうした日が続く中、いつの間にかプログラミングの勉強はストップしていた。

 

ー変化の兆しー

大学四年になり、就活がいよいよ始まり、俺はWebサービス系の企業の企画職やプロデューサー職系を受けていた。いつしか自分でサービスを作るというのは後回しになっていて、前の記事でも書いたが根拠なき自信で面接を受ける日々。

しかし会社は、俺の夢を実現するために力を貸してくれる場ではなく、会社の夢を実現するために俺が力を貸す場なんだと徐々に感じ、俺主導で新規事業を立ち上げさせてくれるような実績を作りたいなと考えるようになった。

そんなある日、ふと俺はあることに気が付いた。

大学がない休みの日はどの日も同じような生活をしているのだ。

お昼ごろに起床し、適当な昼ごはんを食べ、YouTubeNETFLIXを見てダラダラと時間が過ぎていく。夜にまた適当なご飯を食べ、ゲームや動画で時間を潰し、寝る。

まあたまにはこういう生活もいいのだが、文系大学の4年ともなると授業は週に1,2日くらいしかなく、こういう暇な日が一週間のうちに5日もあるのだ。

友達との予定が入っていたり、就活の予定がある時の方がむしろ生活が充実していると感じるほどだ。

これじゃあ退屈だなと思った時、毎日やってもやらなくてもいいお題を提供してくれるサービスがあったらいいんじゃないかと考えたのだ。

 

ー大きな転機ー

「do it」という名前で構想を練り始め、それを実際に作るために俺はストップしていたプログラミングの勉強を再開しはじめた。苦労して勉強を進める中、先程紹介した、いけだ君がプログラミングを勉強していることを知り、時々アドバイスを受けるようになる。

そうして夏休みに入り、勉強をぼちぼち続けながら旅行やら何やらをしているうちに9月になり、まだWebサービスは完成していなかった。

なかなか実現は遠いなとTwitterでぼやいていたら、時々プログラミングで相談に乗ってもらっていけだ君が「俺がプログラミングを書くよ。Kazmaが運営しているところを見たい」と言ってくれたのだ。

それがきっかけで、その日から二人でサービスを作り始め、コードは全て彼が書き、俺は企画やアイデア、デザインを担当し、約一ヶ月で無事ローンチとなったのだ。

 

Clanberryには、いろいろな思いが込められているが、俺がやりたいことは一つで、「人々に新しい可能性や選択肢を提案したい」ということだ。

毎日ランダムに配信されるクエストは、やりたいと思えるものばかりではない。けれど、ふとした気の迷いから実行してみると新しい発見があるかもしれない。

それを楽しいと思えたら、俺は本当に幸せだ。

 

まだサービスの登録者は少なく、活気が出ているとは言えない状況だ。

けれど、俺はこのサービスがきっと多くの人に受け入れられると信じている。

今週中にはアイキャッチ画像のアップデートが行われる予定で、ツイート上でクエスト内容がすぐに確認できるようになるはずだ。

その他、今後予定しているアップデートはたくさん用意してあり、時期と開発の進捗次第のタイミングを見計らって実装していく予定だ。

 

今回のところはこのあたりにしておいて、またアップデートがあったタイミングなどで記事を書いていこうと思う。

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ぜひぜひ皆さん、Clanberryに登録して、何気ない毎日を冒険にしていきましょう!

clanberry.app

 

 

大学4年の春学期を終えて思うこと

 ブログの更新頻度を上げていくと言った矢先から次の更新まで二週間が空いてしまったわけだが、テスト期間で忙しかったのもあるが、書こう!と思えるネタが無かったのが主な原因だ。

 この記事はいつものようなネタがあるわけではないのだが(まあ本当は東京医科大の女子の点数問題からの日本の男女問題など扱いたいネタはあるのだが、この分野は非常に扱い難いので、もう少し女子友達の話などを聞いて考えを整理してからにしたいと思う)、タイトルにもある通り大学4年の春学期も終わり、おそらく最後の夏休みへと突入したので、その総括でも書いていこうと思う。

 

 大学4年の春学期を語る上で外せないのは、就活の話だろう。

 俺のTwitterを見ている人は知っているかもしれないが、俺は現在内定0で、夏休みだからということで就活もストップしている。

 まあ客観的に見ても見なくてもヤバイ状況だろうとは思うが、俺はまったく焦ってないし、絶望もしてない。

 なので心配してくださってる皆さん、大丈夫です。朝の中央線を止めるようなことにはならないので。

 まあ焦ってない理由はいくつかあるけど、一つは俺は自分に異常なほど「根拠なき自信」を持っているので、周りが既に内定を持っていようが何しようが、最終的には大丈夫だと思っているからだ。

 島本和彦原作のドラマ「アオイホノオ」でもこんなセリフがある。

「自信ってのは、根拠のないものなんだよ」

 そもそも自信を持つための根拠に明確な基準などない。どんだけ練習をしようが、どんだけ結果を出そうが、最終的に自分を信じかどうか決めるのは自分次第なのだ。だから、傍から見て当然自信を持てる状況でも自信が無い人もいれば、到底自信など持てない状況なのに異常な自信を持っている俺みたいな人間もいるわけだ。

 しかし、世界広しと言えど、自分のことを無条件で信じてくれる人間など一生のうちに数えるほどしか出会えないだろう。だったらせめて、自分くらい自分のことを信じてあげたらいいんじゃないかと俺は思うのだ。

 まあ、そんなわけで今はせっかくの夏休みということで就活はストップしているが、9月の後半になったら多分再開すると思うので、何らかの結果が出たらTwitterで報告すると思う。

 

 就活以外で語ることを探したのだが、特に見つからないので、就活をして良かったと思ったことを最後に話そうと思う。

 さっきも述べた通り、俺は「根拠なき自信」を人に配って回れるほど持ち合わせている人間なのだが、しかしそれだけの自信を持ってしても内定は0なわけで、流石にこれはどういうことだろうかとなってくる。

 いざ会社に入ったら活躍できると自分では思っているのだが、それが面接官には伝わっていない。だから落ちる。

 じゃあなんで伝わらないのだろう。

 服装がダメか? 話し方がダメか? 表情? 仕草? 態度?

 まあ、そういったことも良くはないのかもしれないが、ふと気付いた。

 話してる内容がダメだと。

 こっちとしては入ったら活躍できるという自信と雰囲気を伝えようとしているのだが、さっき俺が言ったことを覚えているだろうか。

 無条件に自分を信じてくれる人など数えるほどしかいないと。

 そう、俺みたいな大したエピソードもない、アルバイト経験もない、インターン経験もない、スキルもないのナイナイ人間を雇ってくれるほど大企業は甘くないのだ。

 結果、自信としょぼいエピソードで就活をしていた俺は内定が一個ももらえなかったというわけだ。

 

 だが、この経験は俺にいい刺激を与えてくれた。 

 自慢じゃないが、俺は大抵のことは少し努力すれば人並み以上にできる人間で、たくさん努力しても自分以下の結果しか出せない人を、悪く言えば見下してその優越感に浸って生きてきたところがある。

 しかしそんな優越感は所詮、井の中の蛙であって、これから社会で生きていくとなった時、世の中には俺みたいにちょっと努力すれば人並み以上にできる人間がごまんといるわけだ。

 そして社会で活躍する人間の多くは、そうした「ちょっと努力すれば人並み以上にできる人間」でありながらめちゃめちゃ努力した人間だと思うのだ。

 そんな当たり前のことを社会に出る前の俺に叩きつけてくれた就活はとてもいい経験になったと思っている。

 

 今回はこんな感じで緩い記事になったが、評判が良ければこれからはこういう記事も増やしていこうかなと思う。

 あと、Twitterのほうでも呼びかけたが、論じて欲しい話題やこれってどう思うかなどのネタ提供も募集中だ。気軽に送ってほしい。

 それではまた。