平成2020世紀日記

大学生の視点から社会、政治、映画やアニメ、自分の事から身近なくだらないことまで語るブログです。

投票しないからこそ意見が言える!? なぜ選挙に行かないのか

 お久しぶりです。Kazmaです。ここ最近は演劇サークルで忙しくしていて、疲れのせいか、食欲が増大して深夜に唐揚げ弁当を食べる始末。この記事も深夜の3時に書いていて、明日も早いのだが、夜の方が筆が進むのだから仕方がないのです。

  まあそれは置いておいて、本題に入る前に一つ宣伝を。

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宣伝はこの辺にしておいて、そろそろ本題に。

今回のテーマは選挙。

別に近いうちに大きな選挙が控えているわけでもないけれど、今回はこの選挙をテーマに、その中でも昨今問題となっている「選挙に行かない」という事柄について述べていこうと思う。

ぜひ最後まで読んでもらえると嬉しい。

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 まず最初に、皆さんは選挙に行きますか? 行っていますか?

 行っている人は行かない人に文句を言いたい人もいるだろう。結果が自分の支持したものでない場合は特に。

 逆に行かない人は、どうして大して意味もなさそうで、お年寄りばかりが行くイメージの選挙に行くのか疑問に思う人もいるだろう。

 

 ちなみに俺は選挙に行く人だ。

 まあこの記事を読んでいる人のほとんどは大学の知り合いだろうから、俺の性格を知っている人はまあ当然と思うだろう。

 俺は政治に関心があるし、好きなので、選挙権を持ってから今のところ全ての選挙に参加している。

 

 ただ別に今回の記事は、選挙に行かない人に「行け!」と説教する記事ではない。

 むしろ選挙に行かない人に寄り添うような内容になっているので、もしここまで読んで、「どうしよう私行ってない」と思った方も安心して欲しい。

 

 基本的な話として、民主主義国家の日本国民である以上、選挙に行くほうが一般論として良いことだ。

 それは、参加自由の地域の清掃活動に参加しないより、参加したほうが良いというレベルの、そういう意味の話だ。今の日本の政治が云々といった面倒な話は置いておいて、ただ単純に行かないよりは行くほうがいいだろうと。

 ここに特に異論はないだろう。

 ただ現状、日本の投票率は低い。国政選挙の全体の投票率はここ最近は50%ちょっとで、特に20代、30代の若者の投票率が低い。

下に総務省投票率に関するページのリンクを載せておくので暇な人は見てみて欲しい。↓

総務省|国政選挙の年代別投票率の推移について

 

行かないより行ったほうがいいというのは既に確認したので、事情はさておき現状で行っている人はこれからもぜひ選挙に参加してもらうとして、選挙に行かない人はどうしていかないのだろうか。

理由はいろいろあるだろう。

・面倒くさい、いつやっているかも分からない。

・誰に投票すればいいか分からない、てかそもそも選挙制度がよく分からない。

・支持できる人がいない。

・誰が誰に投票ジデモ゛オンナジヤ、オンナジヤ思っでえ!ウーハッフッハーン!! ッウーン! ずっと投票してきたんですわ!(※1)

 など、いろいろあると思うが、まあそれら一つ一つに対する意見はまた別の機会に言うとして、一年ほど前にとあるツイートがネットで話題となった。

 これを読んで、皆さんはどう思うだろうか。

たしかに政治には絶対的な正解はないし、民主主義は間違えを犯す。

その脆さは歴史が既に証明している。自分の一票が間接的に人を殺すことだってありえるのだ。

だから投票しない。したくない。

 

タイトルにもある、投票しないからこそ意見が言える、というのはそういう意味だ。

 

スポーツで誰かに絶対に負けないためにはどうすればいいか。

必死に練習する。

いや、違う。試合をしなければいいのだ。

試合をしなければ負けることはない。無戦無敗であり続ける限り、自分たちは無限の可能性を秘めておける。

 

政治の正解・不正解は、すぐには分からない。それが歴史となったときに徐々に判断が下されていくものだ。

そして完全肯定される政治はありえない。

どんな政治であっても良い点、悪い点があるからだ。

 

よく、「選挙に行かない奴は政治を語るな!」という批判が起こったりする。

もしくは「選挙に行かないということは白紙委任と同じだ」、つまり自分たちの生活を他人の判断に委ねてしまうことなのだと。

そう言って、選挙に行かせようと発破をかける人々がいるが、おそらく効果はないだろう。

 

なぜなら、選挙に行かない人の多くは、むしろ人に任せたがっているのだから。

 

例えば、A市でとある議題について議論されたとする。

その結果、自分や友達、ひいては市民の多くの意見とは違った結論が出されたとする。

当然A市の市民は怒るわけだが、選挙に行ってた場合はどうだろう。

よく考えてみると、その自分たちの意に反する結論を出した議員は自分たちで選んだ議員なのだ。

下手すると自分が以前に投票した議員かもしれない。次の選挙では投票しないと固く決意するが、今回の議題を再度議論してもらえるかは分からない。

今回の結論が出てしまったのは間接的に自分のせいなのだ。

だってその議員を選んだのは自分なのだから。

 

だけど、選挙に行ってなかったらどうだろう。

意に反する結論を出した議員を選ぶことに自分は全く関与していないのだ。

白紙委任? そんなもの、投票に行った人がマトモな人を選べばよかっただけの話で、人のせいにしないでもらえますか? あーあ、もっと良い議員だったら良かったのになぁ。誰だよ、あんなの選んだの」

とまあこんなふうに、散々に文句が言えるわけだ。

 

投票をしないからこそ意見が言えるのだ。

 

投票をしていないから、責任がないから、関与してないから、好き放題言える。

自分だったらあんな議員には投票しなかった、なんで選挙のときにちゃんと選ばなかったの、などなど。

最終的な決断を人に押し付けることで、自分は責任を取らずに済む。

選挙に行かないというのは、一番都合のいい役回りなのだ。

だからこそ、選挙に行っている人は、それが悔しいから行かない人に選挙に行けと言う。

俺たちだけのせいにするなと。お前らも同じく責任を取れと。

 

もちろん、日本には言論の自由があるわけだし、自分たちで選んだからこそ、議員に文句が言えるという捉え方はあるし、文句や意見は当然言っていい。

というかむしろ言うべきだ。

 

ただ選挙に行かない人の多くは、間違いを犯したくないからこそ、人任せにしたいのだ。

だから政治を人任せにしていいのか!という批判は的外れなのだ。

 

意見を言うというのはリスクがある。

それは別に炎上とかって話ではなくて、間違うというリスクだ。

学校の授業で先生が「分かる人は手を上げて」と言った時に、ほぼほぼ答えが分かっていても躊躇するのは、間違うリスクがあるからだ。

数学や理科や社会ならまだ手を上げやすいかもしれない。

けど、国語の文章問題で、段落の意味を答える問題だと余計に手を上げにくいかもしれない。

なぜなら答えが曖昧だから。

国語の文章問題だとたまに悪問が混じっていて、先生ですら、AとBどっちでもいい気がするみたいに言う時がある。

国語の文章問題ですらそうなのだから、答えを出す時点で正解が分からない政治なんて、もっと意見が言い難いだろう。

この国は、間違いに不寛容で、人々は間違うリスクに怯えているのだ。

間違うくらいなら、何も言わないほうがいい。

ほとんどの人がそう思ってしまっているのだ。

 

ここで少し別の話をしよう。

人狼、というゲームを知っているだろうか。

プレイヤーはそれぞれが村人と村人に化けた人狼となり、自身の正体を隠し欺いたりしながら他のプレイヤーと話し合って人狼を見つけだすというゲームだ。

このゲームの立ち回りで、役職のない村人になった初心者にありがちなのが、何も意見を言わないというものだ。仕切り役が議論を進めるのをただ聞いて、多数派に乗っかる。

しかしこれをすると、大抵村人側は負けてしまうらしい。

人狼の上手いプレイヤーが言っていたのは、感でも、当てずっぽうでも、何の根拠もなくていいから、誰が怪しいかを言うことが重要だと。

特に推理をしてなくても、「Bさんが怪しい」と言えば、Bさんは何らかのリアクションを取らざるを得ない。その反応が推理の材料となるのだ。

だから何も言わないのが一番ダメだと。

 

政治もそうなのだろう。

間違っていいのだ。民主主義は間違うものだが、しかしその間違いを修正することもできる。

イメージでも鉛筆サイコロでもいいから、投票というアクションを起こすことが重要なのだろう。

意見を言うことで間違うリスクを背負うし、自分の投票が間違いだと気付かされることもあるかもしれない。

投票に行かなければ、自分に都合の悪いニュースを全て投票に行った人達のせいにすることもできる。家でテレビを観ながら、第三者目線で文句を言うこともできる。

それが一番賢いやり方かもしれない。

でもそれでは本質的に自分の生活は豊かにはならないのかもしれない。

 

でも、この国の政治制度や、学校教育の中で、政治に当事者意識を持て、というのはなかなか難しい話だろう。

正直俺ですら、政治に関わっているという実感は薄い。

投票に行くことでこの国を変えられるとも思えてない。

だから、選挙に行かない人の気持ちも分かるし、その人達に行けと言える根拠もない。

ただ、言えることは間違ってもいいのだ、ということだけだ。

間違ってもやり直せる。現状の選挙制度ではそれが可能だ。

 

意見を言うことがリスクを背負うことだし、間違って恥をかくこともある。もしかしたら結果に責任を感じることもあるかもしれない。

だから選挙に行こう、と俺は言わない。

 

 

 

引用

※1 野々村竜太郎議員の号泣会見を全文書き起こし - ログミー[o_O]