平成2020世紀日記

大学生の視点から社会、政治、映画やアニメ、自分の事から身近なくだらないことまで語るブログです。

中田敦彦発言から考える、夫婦とは?家事とは?気持ちのいい生活ってなんだ?論

 ※この記事は約一ヶ月ほど前に書き始めたもので、その後止まっていたものを今更になって書き足したものです。

 

先日WEBサービスClanberry -クエストボード-をローンチしたということで、一応の一段落はついたところのKazmaです。

そういうわけもあって書き換えだった記事を書き終えてしまおうということで、早速書いていきます。

 

そもそもこの記事は下記の2つの記事を読んで書き始めようと思っています。

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papapico.hatenablog.com

dual.nikkei.co.jp

 最初に読んだのが上の記事で、その後その記事の中で話題に上がっていた下の記事を読んでみた。

 皆さんも興味があったらぜひ読んでみてほしい。

 

 と言ったところで多分読まない人が多いと思うので、内容をざっくり説明すると、オリラジの中田敦彦さんが、ずっと「良い夫」を続けてきたはずなのに自分も妻も不満がつのるばかりだったので、一度最初から考え直しました、というのが下の記事。

 上の記事は、その中田敦彦さんの記事を受けて、彼はサイコパスだとしたうえで、男にありがちな「本人はやっているつもりなのに妻から家事をやっている認定を受けられない問題」についての持論を展開している。

 正直内容に対しては、どっちも一理あるというか、読み応えがあるので、今回の記事はその批評ではなく、ちょうど前々からやりたいと思っていた「男女問題」に切り込んでいくための糸口として「家事」は比較的適してるかなと思ったので、基本的に記事の内容を引用しながら持論を展開していく流れになると思う。

 

 最初に言っておくと、俺は今東京で一人暮らしをしていて、家事全般は一人でこなしている。ただ家族となると家事の規模感が変わったり、子供がいるとそこに子育ても入ってくるので、自分の経験だけでは語れない。

 なので、母親の話やいろいろなところで見聞きした話を交えつつ話していこうと思う。

 

 今回の話はあれこれ書いていく感じのものになると思うので、タイトルで提示した疑問の答えをまず最初に提示しようと思う。

 ズバリ、人間関係は自由だ!

 これに尽きる、というかこれが俺の答えだ。

 昨今、イクメンやらライフワークバランスやら女性の社会進出やらと様々言われているが、人間の関係性は人それぞれバラバラでいいはずなのだ。

 二人が納得して満足していれば、法律に違反したり、公序良俗に反するような関係性でない限り、どのような人間関係であってもいい。

 じゃなきゃSMプレイなんてものは成り立たない。

 亭主関白でもいいし、男は外、女は内みたいな家族でもいい。共働きだからって家事を分担しなくちゃいけないわけでもない。

 そもそも、「子育ては二人でするもの」、「家事分担」といった流れがなぜできたかと言われれば、昔は「男は外で働いて、女は家のことをやる」というのが当たり前に決まっていて、でもそれが時代遅れになり、男だって家事や育児をするべき、女性ももっと働きたいとなってきたからだけれど、全ての元凶は「男と女はこういうもの」「家族とはこういうもの」という常識が決まっていたことなのだ。

 決まった型があるからこそ苦しかったのだ。

 なのにせっかく、その古い型打ち破り始めたと思ったら、すぐに新しい型を作り始めてどうするのだろうか。

 

 昔は女は家のことだけやっていればいい、という型があったらからこそ、社会で活躍したかった女性が苦しんだ。

 けれど、逆に新しい型が作られていくと、仕事だけやりたい夫とそれを支えるために専業主婦をやりたいという妻という夫婦もいるはずなのに、仕事だけやっている夫が「ダメ夫」とされてしまい、二人は満足しているのに、その人間関係に何も関係ない人間から文句を言われることになってしまう。

 

 昔はこうだと決まってた、だけど今はこうなんだと決めよう!

 ではなく、

 昔はこうだと決まってた、だけど今はこうなんだと決めるのをやめよう!

 

 とするべきなのだ。

 最近は何やら人の人間関係に首を突っ込んで当事者は納得しているのに「こうするべき!」と批判をする人が増えているように感じる。

 もちろんそれで彼らが気付いていなかった不満点に気付いて関係性が改善することもあると思うので、意見を言うことは何ら悪いことではないと思うが、「人間関係は自由」を基本スタンスとして、他人の関係性に首を突っ込む際には「間違っているものを教えてあげる」という態度ではなく、「こんなのはどうでしょう」という謙虚な態度であるべきだと俺は思う。

 

 と、ここまでが記事の結論であり、内容の8割なので、もういいよって方はブラウザバック推奨です。

 でも残り2割の細かい話も読みたいという人は、あと少しお付き合いください。

 

 とここまで読んできた方は、「結局、人それぞれってことで何も結論出してないじゃん!」と思われてしまうと思う。どこかの政治学者ではないが、結論めいたもので誤魔化すと頭良さそうには見えるが、「で結局なに?」となってしまうところがある。

家庭それぞれ、というのは俺の一応の結論であるが、その上で実際どういうふうにやっていったらいいかを述べていこうと思う。

 

まず、1つ目は。ぱぴこさんも記事の中で言っているが、家庭内の家事の基準をお互いで共有しておく必要がある。

例えば、掃除が終わったとはどのような状態を指すのか。

洗濯物を取り込んだとはどのような状態を指すのか。

その基準は人によってはバラバラで、見えないところのホコリはそのままでもいい人と、できるだけ完璧に綺麗にしたい人がいる。

だから家事のクリアラインをお互いが知っている必要がある。それだけで無用な争いを生まずに済む。

 

2つ目は、1つ目と少し関連しているのだが、家事をイベント発生と捉えるか、フロー処理と捉えるかを考えておくことだ。ぱぴこさんは家事はフローであると記事中で述べている。

例として上げているのは下記のようなものだ。

冷蔵庫に秋刀魚と手羽先があるな~。秋刀魚はそろそろ期限だから今日食べなきゃ。でも明日ゴミの日だから、手羽先を処理して骨出しちゃいたいな。あーだったら秋刀魚はマリネで日持ちさせて、今日手羽先メインで献立を作るか。野菜はまだあるから今日は買出し行かなくてすみそうだな。どうせ明日ゴミ出しだから、今日のうちに洗濯物回すだけまわしちゃってドラム掃除機の埃掃除もして全部出しちゃえ。そろそろ洗剤切れそうだからamazonで発注しなきゃだなー。他のものも含めて考えて次の資源ごみの前に到着するように依頼かけよっと(10秒)

 俺は正直これはやってもやらなくてもいいと思っている。実際一人暮らしの家事なんてものはイベント発生で十分にこと足りる。ゴミの日だって一週間に二度あるわけだし、その地域やアパートのゴミ捨てのルールにもよるかもしれないが、別に2日前に出したからといってとんでもないことになるわけではない。

こういうことを言うといろんな批判を呼びそうだが、人生とはその場その場で生きるだけで十分であり、今日食べたい方を食べて、もう一方を後回しにして腐ってしまったのなら捨てればいいだけの話だ。(その場その場で生きていくという人生価値観についてはまた今度記事にする)

洗剤なんてものも、なくなったら買えばいいだけの話で、一日二日洗濯できなかったからって別に死にやしない。

要するに、家事は自分の意識次第でどうとでもクオリティを下げられるということだ。

まあ確かに一人暮らしと子供が2,3人いる家庭ではゴミや洗濯の量が違うし、学校の制服などはワイシャツが2枚とかなので、割と大変なため、家庭によって対応を変える必要があるが、それでもどうにかならないことはない。

 ただ当然、家事をフロー処理として捉え、あれやこれやを考えて動いているほうがミスも少なく効率もいい。

だからこそ、そこは家庭ごとに話し合って、フロー処理で考えるのか、一部をフローで考えるのか、ほぼ全てをイベントと考えるのかを話し合うべきだと俺は思う。

 

そして最後の3つ目は、ぱぴこさんが言っていた当事者意識についてだ。

例えば、朝、お母さんがお父さんに「出かける前にゴミ出しといて」と言っている光景というのはみんなドラマなんかで見たことはあるんじゃないだろうか。

これ一見お父さんも家事の一旦を担っているような気がするが、よく考えると、お父さんはあくまで実行役であって、「ゴミ出し」という家事を発案したのはお母さんだ。

世の女性は、ここに不満を感じているのだ。

つまり、家事を発案し、それを適切なタイミングで実行者に指示を出す。その後実行者が履行したかを確認し、済んでいなければ再度指示を出す。

こういった見えない家事を世の男性陣は意識しておらず、それは詰まる所家事に対する当事者意識の欠如だという話だ。

これは至極まっとうな意見で、「二人で家事をやろう」と決めたのに、片方がこの状態ではもう片方が徐々に不満を貯めるのは当然だろう。

よく言う「言われたことしかやらない」というやつだ。

 しかし逆に考えてみると、会社というのは仕事の指示を出す人というのは決まっている。その人があらゆる進捗を理解していて、マネジメントをする。

下の人は言われたことをこなすだけで会社が回る。逆にそれで回らないんであれば、それは上司のマネジメントが間違っているということだ。

とすると、一人の人が管理者となり、実行しかしない人というのも形としてはありだ。

 

だからこそ、話し合いが大切なのだ。

 

つまり全てはここに行き着いてしまう。もし今家庭内で、家事について問題が起きているなら、先程上げた3つのポイントについて、話し合う。

例えば、家事の基準値が10段階だとして、話し合った結果、8がクリアラインと決まり、それを超えるためには家事をフロー処理としていかないと難しいだろうと結論が出た。そしてフロー処理で8を越えるためには、妻が管理者となり、進捗を管理したほうが効率がいいとなり、その分、夫が実業務を多めに行うと決めるのもありだ。

もしくは、しばらくの間は妻が管理者として夫に仕事を指示するが、2ヶ月後には管理者に出世してもらい、お互いが半分ずつくらい家事を自分で見つけやっていくとしてもいいだろう。

 

また、別のパターンで、家事のクリアラインは5で、子供もいないから家事はイベントとして捉えよう。5であれば管理者はいらないし、夫婦ともに自分で家事を見つけて行うのでこと足りるでもいい。

 

パターンは本当に無限で、専業主婦だから家事のクリアラインを10にして、自分が管理者でありながら実業務も行い、夫には仕事だけしてもらうでもいいし、妻は料理が得意なのでそれだけをやってもらい、それ以外を夫がやるでもなんでもいい。

3つのポイントに分けて考え、それらについて話し合い妥協点を見つけていけばきっとその先に気持ちのいい生活は待っているだろう。

 

ただし大切なのはお互いを尊重する心だ。

一方が勝手に家事のクリアラインを10に決め、管理者もやって実業務もやれと片方に要求するのは後々破綻を招く恐れがある。

人間同士、完全に意見が一致することなんてない。

だからこそ譲り合う気持ちが大切なのだろう。

 

要は、家庭内の関係性は人それぞれ自由であって、二人が納得していれば外野がとやかく言うことではなく、二人の納得を作るためにはポイントに分けて物事を整理し、話し合うことが大切ということだ。

 

最後に俺の持論を言っておくと、家事のクリアラインは下げたほうが幸せになると思う。適当にしてもいいものは適当にしたほうが良かったりするのだ。

 

ではまた次回の記事で会いましょう。