日本の若者の死因第一位が自殺という件のトリックのトリック
大学は絶賛テスト期間中で、ほんとはブログなど更新している場合ではないのだが、更新頻度を上げていこうかなと思い、今日も書いている。
というか、テスト期間中は現実逃避からなのか勉強以外に対するやる気がみなぎってくるという経験は誰にでもあるだろう。急に部屋の掃除を始めたり、溜めてた映画やドラマを見始めたり、止まってた趣味を再開したり。
まあそんな話は置いておいて、今回はタイトルにもある通り、日本の若者の死因第一位が自殺であるというニュースについて語っていく。
一ヶ月ほど前の記事だが、リンクを埋め込んでおくので良かったら読んでみて欲しい。
さて皆さんはこれを受けてどんなことを考えただろうか。
若者の死因第一位が自殺なんて、なんて日本は不幸な国なんだろうと思っただろうか。
それとも、この統計には何か数字のトリックがあるのではないかと考えただろうか。
普通に考えれば、将来有望な若者が自殺を選ぶなんて悲しいことだし、それを選ばせてしまう環境や制度を嘆くだろう。
しかし、二個目に貼り付けたニコニコニュースのコメント欄にはこんな趣旨のコメントがある。
「若者の死因第一位が自殺っていいことだよな」
「自殺が一位ってことは、事故や病気が少ないってことだろ」
「若者は身体が丈夫で病気や事故で死ににくいんだから、自殺が一位で当たり前だろ」
「日本が安全で医療が進歩した国である証」
これらのコメントを読んで、
「あぁ、そっか。これは統計のトリックだ」と思っただろうか。
そうなんだ、日本のマスコミはいつもいつもいい加減な情報ばかり垂れ流し、日本が悪い国だという印象を国民に植え付けようとしている偏向報道集団……
なわけないだろう。
まあマスコミが間違った情報を流すことはあるし、その報道姿勢に何らかの偏りがあるのは認めるが、まあそれはまた別の時に話すとして、このニュースは政府が出した自殺対策白書に関するニュースで、その白書が「若い世代の自殺は深刻な状況にある」と言っているのだ。
日本の優秀な官僚達が出した白書が、ネットのコメントに論破されるなんてことは基本的にありえない。
しかし、上記に上げたネットのコメント、何か説得力を感じなかっただろうか。
「言われてみればそうかも」「変かもしれないが、何が間違っているか分からない」
そんなふうに思っている人もいるのではないだろうか。
じつは俺も最初、このニュースを読んで、コメント欄を見た時、同じようなことを思った。ただなんとなくそれら「統計のトリック」を謳うコメントの論理に違和感を抱いたのだ。
今回はそんな、若者の死因第一位が自殺なのはトリックだという論理のトリックを暴いていく。
今回の件、騙されそうになる理由は主に2つあるように思う。
一つは、統計に関する報道に対して「トリックだ」とカウンターを食らわす構図のカッコよさだ。相手の論理の穴をついて、真実を突きつけるような様はクールに映る。実際、それがキレイに決まれば格好良いのだが、今回のところは不発に終わるどころか、恥をかくことになってしまうわけだが……。
そして二つ目は、「自殺率」というキーワードの複雑性と、「若者」と組み合わさった時の相乗効果だ。
これについて例え話を使って解説しよう。
少し不謹慎な話になるが、仮に日本で一年間に若者が1000人死ぬと宇宙の法則かなんかで決められていたとしよう。
そして仮定の話を分かりやすくするために、死因は事故、病気、事件(殺人など)、自殺しかないとしよう。
例えばある年、事故で400人、病気で300人、事件で100人が死んだとしたら、200人が自殺で死んだということだ。
しかし日本は先進国なので、法律は整備されているし、治安も良いし、医療技術も高い。そしてそれらは年々向上していくのが普通だ。
だから五年後には、事故で200人、病気で150人、事件で50人とそれぞれが五年前の半数まで減り、一年間に死ぬ若者は1000人と決められているので、残った人の死因が全て自殺になり、結果その年の自殺者は600人にまで上る。
するとどうだろう。若者の死因第一位は自殺となり、これは事故や病気や事件を防いだ結果だということになる。
これは例え話なので五年で半分に減ったが、実際の世界でも年々事故、病気、事件の死亡者が減っていくのは想像できるだろう。
こう考えると、たしかに日本のような先進国は自殺が一位になるのは当たり前だし、それが進歩した国である証であるように思えてくる。
が、そんなわけはないのである。
まず、他の先進国の若者の死因第一位は事故死である。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダと日本にそこまで医療や社会制度に差があるだろうか。
日本がそんなに近未来的な国だとは思えない。
そして、上記の例え話には一つ、現実世界との決定的な違いがある。
それは、現実の世界では一年間に死ななければならない若者の数など決まっていないということだ。
さっき使った仮定の話での数字をもう一度使って考えてみよう。
ある年、事故で400人、病気で300人、事件で100人、自殺で200人が死んだとしよう。
五年後、社会の発展により事故で200人、病気で150人、事件で50人と半数まで減らすことができたとする。
自殺者対策を何も講じなかったとしても、一年間に死ぬ人数が決まっているわけではないので、自殺者は増えたりせず、変わらず200人のままだ。
自殺者対策を講じないまま、また五年が過ぎ、事故で100人、病気で75人、事件で25人とそれぞれまた半数に減ったのに、自殺者は200人のまま。
ここでとうとう自殺が死因の第一位に躍り出るわけだが、これがどういうことだか分かるだろうか。
自殺が一位になるということに、事故、病気、事件の死者数は何も関係がないということだ。
自殺に対して何も対策をせず、環境や制度が未発展なことが原因なのだ。
一年間に死ななければならない人数など決まっていないのだから、全ての死因に適切な対応をしていけば全てが徐々に減っていき、しかし現代の技術ではどうしても防ぐことのできない事故死と病死だけが一定数残り、理論上は自殺者はゼロにできる。
そして一般的に若者は病気になりにくいので、事故死が一位になるのだ。
だから他の先進国は事故死が死因第一位なのだ。
つまり、自殺が一位であることは、日本が先進国である証でも、他の先進国より治安や医療が優れている証でもなんでもない。
日本が若者を自殺に追い込む不幸な国である証でしかないのだ。
俺は日本という国が好きだし、俺自身は自殺を本気で考えたことは一度もない。
だから日本がそんなに不幸な国であるという自覚はないが、数字がそれを証明しているし、政府も危機感を抱いている。
なのに、そんな現実を「トリックだ」などといった詭弁で誤魔化してはいけないのだ。
これが、トリックのトリックだ。
俺たちはしっかりと現実を見つめ、明日を考えないといけない。
ホリエモンの新幹線の声掛け問題について
新幹線グリーン車なう。前の席のクソ野郎がおれが寛いでいるのにもかかわらず一々「席を倒していいですか?」とか聞いてきやがる。ウゼェ。勝手に倒せや。そうやって何でもかんでも保険かけようとすんなボケ
— 堀江貴文(Takafumi Horie) (@takapon_jp) July 14, 2018
二週間ほど前、堀江貴文氏のこんなツイートがTwitterで話題になった。そして7月22日のサンデー・ジャポンでもこの発言が取り上げられた。
共演者からは批判の嵐だったらしいが、俺はこのツイートは非常に興味深いと思った。
今回の記事はそんなことがきっかけで書かれている。
まずは、この記事を読んでくれている皆さんはどうだろうか。新幹線や飛行機、高速バスで座席を倒したいなと思った時、皆さんはどうしているだろうか。
移動はほとんど飛行機で、ファーストクラスを使うから気にしたことがないって人はシチュエーションを想像だけでもして欲しい。この話は何も座席を倒す時だけの問題じゃない。
因み俺は座席を倒さない、もしくは倒したとしてもほんのちょっとだけのことが多い。なぜなら、新幹線はほとんど使わないから置いておくとして、高速バスもそんなに長時間乗ることはないし、飛行機はいつもエコノミークラスに乗るので、座席を倒しすぎると座面が前にせり出し逆に自分の前のスペースが減ってしまうからだ。
そして、肝心の声掛けだが、そんな事情から俺はあまり後ろの人に声を掛けない。ちょっと倒すだけなので、ゆっくりと少しだけ倒しそのまま知らん顔をする。
この対応に賛否両論はあると思うが、実際のところ似たようなタイプの人は多いんじゃないだろうか。
というのも、そもそも座席を倒すという他人に迷惑を掛ける行為の許可を求めるというのは少なからず勇気がいるわけであって、その勇気を出すくらいなら倒すのを我慢した方が楽と考えてしまうからではないだろうか。
そこで冒頭のホリエモンのツイートに話は戻る。
彼は「席を倒してもいいですか?」と聞いてきた人を「ウゼェ」と吐き捨てた。それ自体は褒められたことではないし、声を掛けた人が悪いわけではないし、声を掛けることが迷惑に感じる人もいるから気を遣えという話をしたいわけでもない。
ただ一つ、前の人はなぜ一言声を掛けたんだろうかということだ。
おそらくその答えは、それが「常識」だからだろう。
(あと、ホリエモンの話によると車内では彼に写真を求める人も多くいたようで、前の彼も一言断るのを口実にそれを求めようとした空気もあったらしい)
海外での常識を俺は知らないが、少なくとも日本では座席を倒す時に一言声を掛けるのが「常識」だと思う。
だから例えば前に座ってるおっさんが何の断りもなくいきなり座席を倒してきたら「イラッ」とする人は多いだろう。
でもその時「イラッ」とするのはなぜだろうか。
座席を倒されたこと自体に「イラッ」とする人は実は少ないんじゃないかと俺は思う。それよりも相手が「常識」を守らなかったことに人は「イラッ」とするんじゃないだろうか。
よく思い返してみて欲しい。他人と社会で関わる際、大なり小なり「イラッ」とすることはあるだろう。そのイラつきはその行為自体から来ているものだろうか。それとも「常識」違反からくるものだろうか。
イラつきのほとんどはよくよく考えると「常識」違反が原因なんじゃないかと思う。
俺は大学生だが、大学には授業中に帽子を被っている学生を異様に厳しく注意する教授がいるという。幸い俺はそういった授業を取ったことはないが、その教授も学生が帽子を被っていること自体に怒っているのではない。誰がただ帽子を被っているだけで怒るのだろう。授業中に帽子を被っていることが「常識」がないと思っているから、その常識違反に怒っているのだ。
肌感覚かもしれないが、日本には「常識」が多いように思う。
そして日本人の多くはその「常識」があることによって、自分たちの生活の平穏が守られ、快適に生きていけていると思っている。
だが、本当にそうだろうか。
相手に「常識」を求めるということは、自分もその「常識」を求められるということだ。「常識」は、相手にされる時だけ発動させて、自分がする時は無視できるものじゃない。
社会人のメール作法、自分がする時は面倒に感じるし、相手から来た時はそこに感動するだろうか。しないだろう。お世話になった云々の定型文は読み飛ばし、要件だけ読むのではないだろうか。
コンビニでの接客。店員の丁寧な接客に感動するだろうか。しないだろう。むしろ大して待ってないのに異様に謝られ、持ってないポイントカードについて聞かれて面倒じゃないだろうか。それに仮に自分がコンビニで働くとしたら、全然ありがたくもない接客マニュアルを自分が実践することになるのだ。それがある意味小売接客マニュアルの「常識」だからだ。
映画館や新幹線での飲食。ポップコーンや駅弁といった推奨されている食べ物があるにも関わらず、それすらも食べていることに文句を言う人がいるという。彼らはおそらく自分の中で新しい「常識」を作り出している。「仮に食べていいとされていても食べない方が常識的だろう。なのに彼らは食べている。常識がない」と。自分で常識を作るのは勝手だがそれを他人に押し付けられたらたまったものではないし、仮に自分が食べたい時があってもその自分ルールに縛られることになる。
日本人は常識やルールやマナーが大好きだ。もちろん社会をより良く保っていくために必要な取り決めというものは存在する。その最たるものが憲法、および各法律だろう。そして法にするほどではないが、大切なルールやマナーや常識も当然ある。
人に悪いことをしたら謝るというのは、しなかったら罰せられるわけではないが、人として当然持っているべき常識だ。
しかし、そんな当たり前の常識ですら守れない奴がこの世にはたくさんいる。刑罰がある法律だって破って犯罪を犯す奴がいるんだから、常識を破る奴がいるのも当然といえば当然だ。
つまりだ、ルールを作ったからって全員が守るわけではないし、ルールを作ることが必ずしも社会をより良くするとは限らないということだ。その典型的な例は禁酒法だろうが、そこまでスケールを大きくしなくても、新しい常識を生むことが自分達の生活を必ず良くするとは限らない。
むしろ、その常識を守らない人が多いせいで、自分が日々イライラすることになるかもしれない。
話が大きく逸れたように感じられるかもしれないが、実はそうではなく、これらのことを踏まえた上で再度ホリエモンのツイートを思い返してみる。
今現在は、座席を倒す時に一言声を掛けるのが「常識」の社会だ。
しかし実際、「席を倒してもいいですか?」の声掛けは「席を倒しますね」の宣言と同等だ。「嫌です」と断ることはできなくはないが、ほぼしないだろう。
そして、声を掛けるのが「常識」とされているため、後ろの人がなんとなく声を掛けにくい人だった場合、「どうせちょっとだし」などと自分に言い訳して我慢するだろう。
しかしこれがホリエモンが望むように勝手に倒すのが「常識」の社会になったらどうだろうか。
当然前の人は断りもなしに倒してくる。しかし現状でも結局は倒されるわけだし、黙って倒すのが常識なのだから別にイラッともしない。座席の構造によってテーブルの上のものが揺れたりするかもしれないが、やばかったら「ちょっと待ってください」と言えばいい。ないしは倒すほうがゆっくり倒し始めるなどといった部分で気を遣えばいい。
そして声を掛けないのが普通なのだから、後ろがどういう人だろうが黙って席を倒せる。疲れて寝たいのであれば黙ってゆっくりと席を倒せばいい。もしくは倒す前に軽く後ろの様子を見てもいいだろう。なんにせよ声を掛けなくていいのだから気は楽だ。
どっちがいいかは人それぞれかもしれないが、俺は後者のホリエモンの望む社会の方が生きやすいと思う。自分も変な気を遣わないし、相手も別に気にしない。
気楽で素晴らしいと思う。
今回は座席の話だったが、日本には他にももっと無くてもいい、もしくは無いほうがいい常識がたくさんあると思う。
そしてその常識のせいで自分たちで自分たちの首を締めている。
日本が息苦しく感じる時があるのはそういったことが原因のように俺は思う。
セックスレスだけが欠点の彼女に最終的に振られた話
はじめに――
この記事のタイトルや内容は、
セックスレスだけが欠点の彼氏と最終的に別れた話 - mogusuのブログを読んで、それに影響を受けて書かれている。
最初にそれだけは断っておこう。
ブログを開設して、何の記事も投稿しないまま二ヶ月くらい経っていた。
もはや、はてブロを開設したことすら忘れかけていた時、俺のTwitterのタイムラインに友達がいいねをしたといって回ってきたのが、上記の記事だった。記事のタイトルに惹かれて読み始め、読み終わった時にはなんとも言えない気持ちになり、勢いのままブログを書き始めている。
というのも、俺は今年の2月に9ヶ月ほど付き合った彼女と同じような理由で別れていたからだ。(まあ俺の場合は振られているけれど)
あまり詳細を書いてしまうと相手方のプライバシーを侵害してしまうので、掻い摘んで説明する。あと細かく書くと長くなってしまうので、多少情報を省いたり、セリフも実際の発言より分かりやすく変えている。
俺の元カノは留学生で、去年の春、日本に来ている間に知り合ったのだが、容姿も好きだし、性格も合っている、なにより一緒にいて気楽で、とても幸せな気持ちになれる人だった。
夏頃に彼女が自分の大学がある国に帰ってからは遠距離が始まった。
毎日LINEはしたし、週に1,2回はテレビ電話もした。
しかし、やはり実際に会えないのは寂しいし、当然セックスもできない。
そんな状態が約五ヶ月続いた――
大学が春休みに入り、僕は彼女の元を訪れた。
久しぶりに会ったのだから、俺は当然セックスがしたかったし、彼女も同じ気持ちだろうと思っていた。(誤解を招かないように言っておくと、彼女が日本にいる間は週に3,4回セックスをしていた)
しかしいざ会っても彼女はセックスやエロいことに消極的で、以前の様子と違うことに疑問を持ち、思いきって聞いてみた。
「どうして?」
すると彼女は少し考えた後、こう言った。
「だってそういうことがあまり好きじゃないから」
初耳だった。そんな話は聞いたことがなかった。ただあまりセックスについて話し合ってこなかったかもと思い、とりあえずもっと相手の考えが知りたいと思って、更に聞いた。
「そうだったんだ。でも日本にいる頃はよくしてたじゃん」
「それは仲良くなるためだったから。もう仲良くなったから、そういうことは必要だとは思わない」
必要だとは思わない・・・? それはどういうことだろうか?
「それはどういうこと?」
「気持ちが繋がってればそれでいいじゃん。セックスは必要だと思わないし、したくない」
これを言われた時、俺は表現しきれない悲しさで胸がいっぱいになった。
今でもこれを言葉でどう表現したらいいか分からない。
ただヤリたかったのができなかったという残念さではない。
それもあるかもしれないが、それ以上に、男として見られていないんだ、彼女はもう俺のことが好きじゃないのかもしれない、というような悲しさでどうしようもなくなった。
本当に表現が分からないのだけれど、どうしようもないほど悲しくなったのだ。
そして俺は、なるべく丁寧な言葉遣いで、独りよがりな発言にならないように彼女に俺の気持ちや考えを伝えた。(因みに、俺と彼女は日本語で会話をしていて、彼女は日本語が上手い)
だが、ダメだった。
根本のスタンスが違いすぎたのだ。
俺は好きだからセックスがしたいし、精神的にも肉体的にも繋がっている感覚が欲しい人だ。
しかし彼女は精神的な繋がりだけで十分で、付き合いたてにセックスをするのは精神的な繋がりを強くするための手段であって、その後は基本的にしたくない人だった。まったくしないわけではないそうだが、ここには書いていない状況や発言からとても消極的になると思われた。
でも俺は彼女が好きだったし、なんとか理解しようとした。ただ5ヶ月ぶりに会った彼女にいきなりこういったことを言われて受け止めきれるだけのキャパは当時の俺にはなく、彼女が自分のことをあまり好きではなくなったからこういうことを言っているのではないかという疑念が浮かんでしまった。
だから俺はいくつか質問した。
「その考えっていうのは、前からそうだったの?」
「そうだよ」
「セックスが好きじゃないなら、どうして最初から言ってくれなかったの?」
「だって、最初に言ったらヤバイことになっちゃうじゃん」
「ヤバイことって?」
「仲良くなれないじゃん」
もうダメだなと思った。彼女にとってセックスは仲良くなるための手段という意味合いが一番強く、愛情を確かめ合ったりする意味合いをほとんど持ち合わせていないのだと思った。
そして彼女自身、最初の頃にセックスがしたくないと言ったら相手が離れてしまうと思っているのだ。
その後、何度か話し合いを持ったが、「セックスによって愛情を感じたい」、「セックスがあるから気持ちも繋がっていると感じられる」という俺の気持ちは全く理解されずなかった。
「意味がわからない」、「ただ体が目的なんでしょう」と言われ、最終的に俺が折れて、彼女の考えに合わせるよと言った時には既に時遅しで、「気持ちが変わった」と言われ、俺は振られた。
これが大体のあらすじだ。実際はもっと複雑な状況で、もっと長い会話をしているし、この記事は俺の主観で書いているから意識的や無意識的に自分に有利なように書いているだろう。
だからあくまで上記のあらすじは、例え話の一つのような感覚で読んでもらえればと思う。
この出来事について、「結局体が目的なんだよ」、「彼女のことが本当に好きじゃなかったんだよ」と思われる方もいるかもしれない。
でも俺自身としてはそういうことではないと言いたい。彼女のことは本当に好きだったし、体は目的の一つだが、逆に言うと体だけで心が繋がっていなければ虚しいだけだ。
あと、たらればの話もいくらでもできるだろう。
彼女がもっと早く言ってくれていたら、理解することもできたかもしれない。
俺がもっと早く聞いていたら、じっくり考えられたかもしれない。
遠距離じゃなければ。
タイミングが良ければ。
ただそんなものは全て意味のないことだ。
結果は反りが合わず別れてしまった。それだけだ。
彼女自身のことは本当に好きだったが故に振られたときはすごく悲しかった。
けれど、同時にそれまでの話し合いでこの関係が長く続かないことは俺自身が一番良く分かっていたのかもしれない。
ただ一つ、俺は理解して欲しかったのだ。
セックスが好きでも嫌いでもいい。セックスに対してどんな考えやイメージを持っていてもいいけれど、セックスがあるから精神的にも繋がっているんだと思えるという考えを理解して欲しかった。
セックスも拒否され、それに対する考え方も尊重されず、理解されなかったことが一番悲しかったのかもしれない。
この出来事は、数ヶ月経った今でもふと頭の中に浮かんでくる――
性別も女性と男性で違うし、境遇や状況も違うとは思うが、mogusuさんの記事を読んで似たような思いの人がいるんだと、なんだか救われた気持ちになり、この記事を書いてみました。
初めて書いたブログ記事で読みにくかったとは思いますが、ここまで読んでいただきありがとうございます。
それでは、また。